八川社のブログ

プロ野球、電源不要、サイコロ野球

ドラフト拒否のその後について2題

きめらにせんです。ひさしぶりのお題はこれ。

 (1)ドラフト拒否の回数

HONDAの長野がロッテ入団を拒否したが、2回目のドラフト拒否となる。
しかし、上には上がいて、4回拒否して5回目で入団した強者がいる。
中日の藤沢公也である。
'69年にロッテ3位を蹴ったのを皮切りに、'71年ヤクルト11位、'73年近鉄4位、'76年日ハム2位を蹴り、'77年に中日に1位指名されて'78年シーズン終了後に入団した。この間実に9年。
'79年に13勝5敗、防御率2.82を挙げて新人王になったが、翌年は1勝15敗と低迷し、'84年に実働6年で引退した。
これをどう取るかは皆さまにお任せする。

 (2)荒川事件

ドラフト拒否をした選手は当然指名した球団のファンからは非難される。
その最も悲惨な例がこれだ。

'69年のドラフトの目玉は早稲田大学荒川尭
養父の荒川博は巨人のコーチ、慣れ親しんだ神宮球場アトムズ(現在のヤクルト)の本拠地ということで、巨人とアトムズ以外なら入団を拒否すると声明を出していた。
しかし、荒川を指名したのは大洋だった。
荒川は入団を拒否してアメリカに留学したが、大洋は'70年暮れにヤクルト(この年からヤクルトアトムズ)への移籍を前提にした契約をもちかけ、荒川はこれを許諾して入団した(現在では移籍を前提にした入団交渉は禁止されている)。
このあとすぐにヤクルトに移籍したが、ドラフト破りということで1ヶ月の出場停止処分を受けた。
'71年1月4日、自宅近くで荒川は熱狂的大洋ファンと目される2人の暴漢に襲われ、バットで殴られて後頭部と左手中指を骨折。
後頭部を殴られた荒川はその後遺症で左目の視力が低下し、'75年シーズン途中に現役引退を余儀なくされた。実働5年、28歳だった。
今ならこの「ファン」はネ申扱いなのだろう。
この事件以来数年は、「入りたい球団と違う球団に指名されても、命が惜しければ入団すべき」が常識となった。

入団拒否には様々なドラマが付きまとうということか。